エイドリアン ・ ニューウェイ HOW TO BUILD A CAR – F1 デザイン –
これに書いてあった事を一部抜粋します。
FW16はリアDFの安定性を欠いていた、ニューウェイは風洞に籠り実験を繰り返し、車高があるポイントに下がると剥離する事がわかったと言う。
ディフューザーがパンプによってストールした。リアがスライドしてスピンさせないようにセナが反応。アクセル開度50%、左に若干切っていたステアリングはセンターへ、力を加えないように操作している。そしてすぐにブレーキング動作へ。
これがニューウェイによる大まかなテレメトリー分析です。
バストール・マルドナド
2011年にデビューした彼は、とにかくクラッシャーだった。いつも期待を裏切らず何かしでかす事からお笑いのネタ的に師匠と呼ばれる。
そんな彼は2012年スペインGPでなんとポールトゥウィン!ベネズエラで凱旋デモランを行うが、大勢の地元ファンの前でクラッシュするのだった(笑)
師匠~!!!
幸先よくネタ投稿サーセン^^;
マルドナドか・・・。今となっては懐かしい名前ですね。ベネズエラと言う国自体、もう大崩壊しましたので・・・彼は今、何処で何をしているのでしょうか?彼のスポンサーPDVSAももう・・・。
ジョニー・ハーバード
1989年ベネトンでデビュー(開幕戦4位入賞)
色々なチーム(ティレル、リジェにも)を渡り歩きましたが、
ロータスの在籍期間が最も長く、ハッキネンとのコンビは抜群でした。
ハッキネンとは兄弟のように、仲が良かった。
1995年にシューマッハのいるベネトンに再加入、2勝を上げる。
シューマッハ用にセットアップされたマシンでも乗りこなせる技量の持主で、シューマッハを恐れさせたドライバーの1人(もう1人は、永遠のライバルだったハッキネン)
シューマッハとは最後までソリが合わなかった。
グループCのルマン24時間耐久レースで、チャージマツダのロータリーエンジンで優勝したメンバーの1人としても有名ですね。
マシンとチームに恵まれていれば、ワールドチャンピオン狙える器だったと思っています。
ハーバートは良かったですね、F3000の事故さえなければもっと活躍できたドライバー。
スチュワートに1勝をもたらし、運が悪いのか?良いのか?変わった運を持っていた人ですな。
そう言えばハーバートは1992年の鈴鹿で予選6位、決勝も一時3位を走行した様な記憶があります。ロータス107は確かに優秀なマシンでしたがハーバード&ハッキネンも凄かった。ハッキネンは決勝、ハーバートは予選で輝いたシーズンだった記憶があります。1992年のロータスは。ああ、今やもう・・・。
1994年シューマッハのドライバータイトル獲得の疑惑(亡くなる前のセナが最後まで疑っていたTCS)について事情を知っているかも知れないチームメイトの1人(他にJJ・レート、マックスのパパであるヨス・フェルスタッペンも)
でも、ハーバードは紳士ですね。
シューマッハの人柄、ドライビングマナーについて批判してもテクニカルな事について深く言及しない所がナイスガイでした。
1つだけシューマッハ専用ステアリング存在の記事を読んだ事あります。
TCS作動用ボタン有ったか?までは書いていませんでした。
ここに秘密があったのかな?と思っても既に過去の出来事、闇の中。
FIAがECUにTCSプログラムを確認したが、使用したかどうか?までは追及出来なかった。
空力デザイナーのロリー・バーンは別としてシューマッハ本人、ブリアトーレ、ロス・ブラウン、トム・ウォキンショウの4人だけが真実を知っている?それとFIAも知ったうえで。
ハーバードは、どんな理不尽な対応にあっても、悲壮感が無く明るくユーモアたっぷりに振る舞うので大好きです。
ハーバートは今はイギリスのスカイTVのF1中継でパドックのインタビュー役をしています。予選の時はコーナーの近くに立って各車や各ドライバーの特徴などを説明したりもしています。
マーク・ブランデル
1991年、ブラバム・ヤマハでデビュー。ベルギー、スパ・フランコルシャンサーキットにて自身&ヤマハエンジンに初ポイントゲット。翌年マクラーレン・ホンダのテストドライバーを務めた後、リジェ・ルノーへ。開幕戦&ドイツGPにて3位表彰台。さらに翌年ティレル・ヤマハで再びヤマハとのジョイント。スペインGPにてヤマハエンジンにTOTAL55戦目で初表彰台をプレゼント。何かとヤマハエンジンにご縁のあったドライバーでした。ティレル時代のパートナー、片山右京の事を第一印象を「Little(小さい)」と表現していたのを覚えています。又、ブラバムとリジェの時のパートナー、マーティン・ブランドルとの仲はMBコンビと言われていた記憶があります。MBコンビは何故か相性が良い二人でしたね。同じイギリス人だったからでしょうか?F1の下積み時代、フォーミュラ・フォード時代のライバルにジョニー・ハーバート、後のF1チャンピオン、デーモン・ヒルもいました。
ジェームス・ハント
76年の富士でラウダが棄権しても気合で走り続け3位でワールドチャンピオン。77の富士では優勝と古株F1ファンでは絶大な人気がありました。一般的にイモくさくセンスが悪かった当時のF1ドライバーで一人ロックスターのようなカッコよさが当時中学生の私には憧れの対象でした。
ラウダが棄権した一件で、エンツォ・フェラーリと大喧嘩したラウダが、翌年に2回目のドライバータイトル取った後、フェラーリを出ていったのでしたね。
フェラーリを去る本当の理由は、チームメイトだったレガツォーニの処遇について?
エンツォ・フェラーリが引き留めるために、白紙の小切手をラウダに手渡して「好きなだけ欲しい金額を書き込め」と言ったのに対して、ラウダが拒否したエピソードを記事で見た事があります。
その時ラウダも一言「あなた(エンツォ・フェラーリ)がいるチームで走りたくないのです」
私も一度でいいから、こんなセリフ言ってみたいです。会社に(笑
当時のF1をご存じであれば2013年に公開された映画「ラッシュ」はお勧めです。
富士の実写の部分が少ないのが少し残念ですが。
http://rush.gaga.ne.jp/main.html
中嶋 悟さんも89年最終戦豪州GPで予選22位からファーステストラップ+4位という大技を成し遂げられた時の翌日。アデレードの空港にて偶然ハントと対面したそうですが、その時ハントは中嶋さんに対して今まで低評価していたことを謝罪したそうです。しかもこんな言葉を口にして。「もしもF1が全戦雨のレースであったらあなたは立派なワールドチャンピオンの候補になっている。」と中嶋さんに告げたそうです。ハントもあのレースで日本人の見方を変えたのでしょうね。まあ中嶋さんのF1人生一番の見せ場レースでしたから、89年最終戦は。そんな気がしませんか?未だに。
ホンダのサポート支援有ったとは言え、
ロータスチームでの3年間No.2ドライバー扱いでしたが、あの偉大なるブラジリアンでワールドチャンピオンだったセナ(1987年)とピケ(1988年、1989年)とコンビを組んでいた事実が凄い事でした。
セナには敵わなかったでしたが、3回ワールドチャンピオンのピケに1988年ベルギーGPの予選で上回った時は、嬉しかったです。
1989年最終戦オーストラリアGPアデレイド市街地での4位は限り無く3位(パトレーゼ)に近い3.5位に値するくらいでした。
1990年からティレルに移籍する事となり、ロータスチーム最後で優秀の美を飾るところが中嶋選手らしいでしょうか?
終わり良ければ全て良し。
やっちゃったジャン=ルイ・シュレッサーかなぁ。胸ぐら掴まれなかったのかな笑
ぜんっっっぜん関係ないのですが(またかよ笑)、アロンソ感電事件の真相って明らかになったんでしたっけ?
1994年サンマリノGPでセナのFW16は、スタート直後(実際はローリングスタート開始から)激しいボトミングで火花がたくさん飛んでいた光景が今でも記憶にあります。その後の事故と関係したのか別として
同じFW16デーモン・ヒルやセナの背後に迫るベネトンB194シューマッハのマシンは火花が飛んでいなかったので、最初からセナのマシンは挙動に異常があったのか?初期セッティングがそうだった?のか、今でもよく分からないです。
1994年から燃料補給が可能になったので、燃料搭載量はフルタンク満タンでは無かったので車重量も軽かったと思うのですが、
タイヤの空気圧下がって(スタート開始のクラッシュで散乱した破損パーツの残骸を踏んでしまった?)車高が落ちたとの可能性も言われてました。
シューマッハのオンボードカメラで、高速コーナータンブレロを真っ直ぐ突き抜けて画面から消えてしまったセナのFW16を観て、何とも言いようのない気分になりました。
映画「セナ」の画像シーンで
ルーベンス・バリチェロがドライブするジョーダン・ハートが路面を離れてマシンごと浮き上がったまま、コンクリート壁に激突したシーンは衝撃的で恐ろしなりました。
1994年のF1は無茶苦茶でした。
エイドリアン ・ ニューウェイ HOW TO BUILD A CAR – F1 デザイン –
これに書いてあった事を一部抜粋します。
FW16はリアDFの安定性を欠いていた、ニューウェイは風洞に籠り実験を繰り返し、車高があるポイントに下がると剥離する事がわかったと言う。
ディフューザーがパンプによってストールした。リアがスライドしてスピンさせないようにセナが反応。アクセル開度50%、左に若干切っていたステアリングはセンターへ、力を加えないように操作している。そしてすぐにブレーキング動作へ。
これがニューウェイによる大まかなテレメトリー分析です。
セナの卓越したスライドへの反応、マシンがほぼ直進で壁に向かってしまっている。
スピンして回転動作をしていたなら助かっていたかもしれないと、私は考える事がある。
ローランドは数少ないアイルトンの友人だったとも書かれております。
ありがとうございます。
ニューウェイ氏のこれまでの活動記録が紹介された出版本が出されましたですね。
FW16独特のリヤ形状(ドライブシャフトを内包したアッパーアーム、ブーメラン型リヤアンダーウイング)など、前年型FW15C、前々年型FW14Bとは一線を画したマシンで名手セナを持ってしても扱い非常に苦労したマシンだったのですね。
この高速コーナータンブレロは、過去にも1987年ネルソン・ピケ(ウィリアムズホンダ)1989年ベルガー(フェラーリ)共にコースアウトした箇所で、路面に継ぎ目(段差?)があったですね(補修工事されたと言われてますが)
その影響あったのか分かりませんが、難なくコーナークリアーしていれば大丈夫だったのですが、コースアウトすれば逃げ場(ランオフエリア)が少ないのでコンクリート壁に激突は免れない。
管理者様の指摘される通り、マシンがクルクルと駒の様に回転しながら壁に衝突していればドライバーに加わった衝撃がいくらか緩和されていたかも知れないです(素人想像になってしまいますが)
カーボンファイバーとて衝突角度がまずいと鉄壁では無いと証明された事例になってしまいました。
それらが教訓となって、現在のドライバーの着座スペース寸法確保やハロー、サイド衝撃吸収構造、サスペンションアーム内にホイルテザー(タイヤとホイルがアームから千切れても車体から離れないためのケーブル?)など安全対策が強化されましたですね(完全無欠ではないですが)
セナの友人だったとは知りませんでした。
シムテックのローランド・ラッツェンバーガーの事ですね。
F1デビューして間も無かったのに
特命捜査課さん、あなたのコメントで思い出しました。奇遇というか、偶然というか?1987年のネルソン・ピケのイモラでの事故の日付が5月1日であったとピケ本人が日本の何処かのF1番組で発言していた記憶が甦りました。偶然というのは本当に恐ろしいものです。批判になってしまいますが、5月1日のイモラは悪魔が潜んでいる・・・って感じが致しますが。後、セナとラッツエンバーガーが親しい間柄の友人だなんて知らなかった事実でした。だからかな?セナは彼の事故現場を目にして弱気な発言をしてしまったのかも。でも誰だって家族や友人や大切な人を近くで失うと動揺を隠せない。人間だったら当たり前の感情ですよ。例えセナだって例外ではなかったと思います。特に事故現場がよりにもよって彼らの身近な仕事場であるサーキットでしたから・・・。今思えば本当に、そんな気が致します。セナもローランドももっともっと長く生きたかったであろうに。
f1観戦歴28年様
コメントありがとうございます。
それは知らなかったです。
1987年のサンマリノGPも決勝が5月3日の日曜日、ピケが事故したのが2日前の金曜日、同じ5月1日だったのですね。
この日は忘れられません。
ローランドの事故の後、セナが意気消沈してレースする気力失っても誰からも責められないのに。でも走らなければとの思い、その葛藤はキツイ。常人では、とても耐えらない。
セナとピケが同じブラジルの同胞関係ではありましたが、犬猿の仲というのがマスコミの認識ではありましたが、セナの悲報にピケも心からお悔やみのコメントを発信していたので、互いにドライバーの力量を認めていたのですね。葬儀参列はしなかったけれど、
レースの場では互いに牽制したり、いがみ合っていても、いざ異変が生じれば一致団結するのがF1ドライバーですね。
ラッツェンバーガー、セナの両ドライバー氏が亡くなった事で、急遽GPDAが結成され安全対策強化に乗り出したのが救いでした。
1982年同様、ラウダが世話人となりシューマッハ、ベルガーが代表となりFIAと交渉しました。
セナとピケの犬猿の仲は有名でしたけど、在りし日にセナ、プロスト、ピケ、マンセルの4人が親しそうに4ショットで撮影された写真を拝見した事を思い出しました。この4人にもこんな時もあったんだと感じた1枚の写真でした。ピケは白、マンセルとプロストは赤、セナは黒いJPSのレーシングスーツを着ていたので多分86年に撮影したものではなかったと思います。あの4人にもこんな時代があったんだって思いました。
ピケ、マンセル、プロスト、セナの四天王
1986年F1の勢力図を象徴するワンシーンでした。
この年はウィリアムズホンダが圧倒的に強くて、マクラーレンに陰りが見られた(TAGポルシェターボ性能低下が原因)
その2チームに割って入る様に、登り龍のごとく若きロータスルノーのセナが台頭してきた感じです(本格的にワールドチャンピオン獲得に至るまでには数年待たねばなりませんでしたが)
この時すでに舞台裏では、ウィリアムズ、マクラーレン、ロータスの
3チームによるホンダターボエンジン争奪戦が展開され、2年後にマクラーレンがホンダとジョイント、ウィリアムズがホンダと別れて一旦低迷したのはご存知の通りです。
ホンダをマクラーレンに奪われたフランク・ウィリアムズの怒りは相当激しいモノだった!と伝えられたようです。
それとマクラーレンで将来プロストのチームメイト候補にセナとピケが挙げられており、なんとプロスト自身はセナの方を推していた!と言うことでした。意外です。
もしもプロストがセナではなくてピケをチームメイトとしてタッグを組んでいたら・・・どうなっていたと思うでしょうか?ちょっと予想がつきませんけど。まっ、現実だったらF1の歴史もかなり変わっていたと思いますが。
プロスト、ピケともにラウダからワールドチャンピオン獲得の手段を伝授されて、お互いに手の内も知っているので意外と面白いかも知れないですね。
でもどちらが主導権(No.1待遇)握るか?で揉めそうですね(^.^)
両者ともに個性、主張がキツイですから
ってことはピケとプロストは二人共ラウダの弟子⁉みたいな存在ですか。ジャッキー・スチュワートも「グラハム・ヒルは私のチームメイトであり師であり名コーチだったので私も彼のお陰でチャンピョンになれた。」と先日コメントしていたように。ニキ・ラウダはピケ&プロストの師匠ですか。考えてみればプロストの弟子のようなドライバーもジャン・アレジとかデーモン・ヒルもいい例だと思います。特にヒルはプロストとコンビを組んで多くを吸収して学んだお陰で自身もチャンピョンになれたような感じでしたし。まあ、ヒルはその後、セナ、マンセル(数戦のみ)と言ったチャンピョン経験者とコンビを組めたし・・・。勉強になったのでしょうね。優秀な名コーチドライバーと組むと良い結果を出せるのかも?知れません。
ピケはブラバム時代に、プロストはマクラーレン時代に、それぞれラウダから学んで実践した。
特にプロストの方が、より多くの事をラウダから吸収したのではないでしょうか?
ポイント獲得もそうですが、レース後に高ぶった気分を落ち着かせるためバーで洋酒を一杯だけ(ブランデーだったか?)引っ掛ける事を教えた。
その通りですね。
プロストからは、アレジとヒルが影響受けたでしょうね。
こちらも特にヒルが、少ないステアリング操作でコーナーを曲がる手法を模範にしていたようですね。
セナは果たしてプロストから何を学んだでしょうか?戦略?
それともマクラーレンMP4のセットアップ技術であったでしょうか?
93年のウィリアムズ・ルノーのプロスト&ヒルのコンビは正にチームメイト同士と言うより子弟コンビと言う感じでしたね。ヒルがプロストに弟子入りしたみたいに。セナとヒルはいかにもチームメイトと言う感覚だったようでしたが、皆様はどう感じられましたか?
これは想像の範囲なので御許し頂きたいのですが、
セナはプロストから
雇い主(ロン・デニス)との交渉術、自身の価値を高めて契約金を吊り上げる手段、他チームと天秤に掛ける事なども教わったのではないでしょうか?
ヒルも同様にワールドタイトル獲得しても決して油断するな!とプロストから言われたかも知れない。
ラウダもデニスに一切相談せず、いきなり2度目の引退(今度こそ本当に)を表面した事、プロストが1989年イタリアGPでファンに優勝トロフィーを投げ与えてデニスを怒らせた事など、
映画セナのワンシーンで
1993年F1最終戦オーストラリアGPレース終了後の記者会見、
ウィリアムズ入り決まったセナが、デニスから「考え直すなら、今からでも遅くないぞ!」と言われた事を答えた時、隣のプロストから「私も同じ事を言われた!」と発言して、セナが再び「ロンの奴め!」と答えたのが、
全ての関係を物語っていました。
F1ドライバー以上に、チームオーナーにも一筋縄ではいかない人物が多くいましたから
ラッツェンバーガーの事故については、ニューウェイ氏の書籍の中でこう書かれています。
金曜日にシムテックのエンジニアからフロントウィングの修復についてアドバイスを求められ、それは自チームのTDに聞いてくれと答えた。
土曜日、フロントウィングが脱落してフロアに挟まりクラッシュ。完全に修復されていないフロントウィングを使っていたのかはわからないが、真相は・・・。
ジム・クラーク
ホンダが参戦しF1に興味を持ち、初めて名前を覚えたレーサーがジム・クラークです。強いレーサーは速さだけではないと知りました。
ラジオの深夜番組で訃報を知り本当にショックで、ほとんど情報が入らず何も解からぬ仲間同士で事故について激論したこと覚えています。私はまだ高校生でした。動画などほとんど観る機会の無い時代、自動車雑誌を読みあさる毎日でした。
中島 悟
日本人初?のF1ドライバー、地味だけどいい人ですよね。
公式のモナコのパーティにジャケットで出席し顰蹙を買ったとか、HONDAは頑張っていましたけど私もちょっと気恥ずかしかったですね。日本はF1文化もまだまだ黎明期でした。今でもそれほど変わらないのかな?彼にはもう少し日本のF1界発展に関与して頂けたらと思います。